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圓 龍 寺 略 縁 起



寛永二年(1625年)宇多源氏(うたげんじ)の流れを汲む佐々木義秀の末孫六郎義高が、 東本願寺第十三世宣如(せんにょ)上人の導きを受けて深く真宗に帰依(きえ)し、 法名(ほうみょう)釋了安(しゃく りょうあん)と、山号並びに寺号を愛光山(あいこうざん)圓龍寺(えんりゅうじ)と 賜ったのに始まる。

現在の本尊(ほんぞん)である木像阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)は、 寛永十五年(1638年)に宣如上人より了安に下附されており、親鸞聖人御影(ごえい)も返宝三年(1675年)に 第十五世常如(じょうにょ)上人より免許せられたものである。

当初の本堂は、秀吉の建立した聚楽第の一部である眠華殿を後水尾院より拝領し、 寺地は同院中宮東福門院より寄進を受け、移築したものであった。 当時の寺地は猪熊通六角から東南に亘り広大な寺域であったが、時代の変遷と共に減少し 現在は僅かの寺域を残すのみとなった。

本堂は元は檜皮葺(ひわだぶき)、唐破風(からはふ)、三つ棟(むね)造りであったが、 天明八年(1788年)の大火(注.1)にあって延焼し、その後同じく三つ棟造りとして文化十二年(1815年) 瓦葺に改めて再建された。江戸時代に於ける公家の書院造りの面影をよく伝えている。

また現存の寺門は眠華殿と共に拝領したと伝えられ、重厚な四つ脚門であり俗に薬医門と呼んでいる。

その他庫裏(くり)は文久年間(1861年から1863年)の建築で太鼓楼(たいころう)造りである。 宝蔵、鐘楼等の堂舎及び 寺宝は天明の大火で消失している。


尚、2006年の修繕で本堂は一つの棟となったが、屋根以外は1815年再建当時の形を残している。


(注.1)天明八年(1788年)正月三十日に起きた、京都の歴史上最大の火災。鴨川の東、 団栗辻子(どんぐりのつじ)の民家から出火し、鎮火まで二昼夜にわたり 燃えつづき、当時の京都の市街をほぼ焼き尽くしたといわれる。